『umigiwa profile』interview #04
540年以上の歴史。海際の寺が紡いできた集落との絆
地区名は冷水だが、“浦”を付けた呼称で親しまれる冷水浦。JR紀勢本線の駅名まで「冷水浦駅」となっている。実は、江戸時代前半まで地区名は「冷水」ではなく「清水」であり、一説によれば海南市内の山側に類似の地区名があったことから識別のために“浦”が付けられるようになったと言う。
この冷水浦に構えられているのが、和歌山県における浄土真宗本願寺派の寺院の起源とされる了賢寺(りょうけんじ)。全国7万以上ある寺院の中で最も海に近いと言っても過言ではないほど、海際に佇む珍しい寺だ。 了賢寺の歴史は長く、開創は1476年。清水浦の住人である喜六太夫が熊野参拝途中の本願寺第8代宗主蓮如上人に出会い、教えを受けて法名「釋了賢(りょうけん)」を賜わり、飯盛山の頂上に清水道場を開いた。
現在の場所に移転したのは1778年のこと。移転の詳しい理由について記述は残されていないが、第9代住職の松本 教智さんは「寺院は小高い所に建設されることが多いですが、了賢寺は冷水浦の中心となる通りからさらに一段下がった海際の場所に建てられています。冷水浦の人々の暮らしと密接し、お参りもしていただきやすい。津波の心配もあるなかで、この移転は先人の方々の勇気ある英断ですよね」と笑顔で話す。
1874年、了賢寺の本堂廊下を使用し、内海小学校冷水分校の前身となる冷水簡易小学校が開かれた。「海南市内で2番目に古い小学校です。当時の冷水浦の人々が子どもたちの将来を思い、熱い思いのもと先駆けて開校した。その先見の明と行動力に脱帽するばかりです」。
小学校が飯盛山の中腹に移ってからも絆は途切れることなく、1964年に冷水分校が木造から鉄骨造へ建て替えられる際は、本堂が小学生の学び舎として提供された。さらに、第8代住職の妻である朝子さんが保育士の経験があったことから集落の人々の強い要望を受け、1959年から36年間、境内で冷水幼稚園を開いていたそうだ。卒園児数は462名。幼い頃の登園の記憶を懐かしげに語る集落の人々は少なくない。
かつて冷水浦は、大法要の時には華やかな衣装で化粧をした子どもたちが集落を練り歩く「稚児(ちご)行列」が行われるほど人口が多かった。現在は法要のみとなっている行事「二尊会(にそんえ)」は、30年前まで大きな餅が撒かれ大層賑わったと言う。
2026年には開創550年を迎える了賢寺。その次代後継者であり、毎年お盆や春秋彼岸の折には住職と共に門徒宅にお参りをする良教さんは「昔に比べて人口は減りましたが最近は冷水浦に移住される方や後を継がれる方もいます。私も祖父や父が代々受け継いできた歴史と思いを繋ぎたいと考えています。地域が変化するには5年・10年とかかるかもしれませんが、長い目で冷水浦の将来と向き合っていきたいです」と語る。
年越しには、隣り合わせの了賢寺と冷水八幡神社を参拝し、除夜の鐘を突いて初参りをすることが冷水浦の風習だ。配偶者や子どもを連れて帰省する人も多く、かつての冷水浦の姿を彷彿とさせる賑わいが生まれている。後継者や移住者が投じる一石一石が時間をかけて大きな波をつくり、いつかこの賑わいが常となる日が再び訪れるかもしれない。
※写真解説
1枚目:了賢寺の第9代住職である松本 教智さんと、現在は宮城県石巻市の寺院で修行をする息子の松本 良教さん(2023年)、2枚目:冷水漁港が建設される以前の了賢寺(1950-60年)、3枚目:稚児行列の様子(1966年)
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以上は、冊子『umigiwa profile』のweb版としての転載です。
発刊 2023年3月31日
企画 価値検証フィールワークユニット2023、友渕 貴之(宮城大学)
制作 前田 有佳利(noiie)
企画協力 日本建築学会海際文化小委員会、Seaside Monkey
制作協力 土井 佐知子(冷水自治会)
写真協力 内海小学校冷水分校資料、了賢寺