『umigiwa profile』interview #02
防災活動から垣間見る、廃校となった小学校の思い出
冷水浦の海沿いに「飯盛山」という名称の小さな山がある。登り口の石段を上がると、中腹に芝生が広がる多目的広場が現れる。消防団員と自治会長として冷水浦の防災活動に詳しい土井夫妻によると「有事の際の一次避難場所として国道沿いにある旧コンビニの空き物件が指定されています。だけど収容人数が20名と少ない。なので、この多目的広場を二次的な避難場所に指定して防災用テントも準備しているんです」。
ここには以前まで内海小学校の冷水分校が建っていたと言う。冷水分校の歴史は長く、1874年に了賢寺(interview #04後述)が冷水簡易小学校を開校したことがはじまりだ。生徒数の減少から2013年に休校となり、2018年3月に廃校。最初は避難場所として校舎を活用する案も出ていたが、老朽化による耐震課題から同年内の取り壊しが決定。144年の歴史に幕を下ろすことになった。
佐知子さんは「取り壊しが決まった時は、主人と子どもが通った思い出の校舎がなくなることが悲しくて悔しくて。私は麓のシラス屋で働いていたから、子どもたちの賑やかな声がいつも聞こえていました。集落の人たちも気軽に子どもたちの様子を見に上がって、時には一緒にドッジボールをしたりして」と懐かしみ、涙を滲ませる。シラス漁やワカメ漁などの社会見学や、珍しい魚が取れた際に漁師から学校に「子どもら見に来んか」と連絡が入るなど、海際ならではの思い出も多い。
宏文さんが小学生の頃は、今より物理的にも海との距離が近かったそうだ。「昔はもっと防波堤が低くて、少し覗けば波が見えるくらい海が近くにあった。魚釣りや磯遊びができるような海岸やったんよ。埋め立て直後はフェリー乗り場があって観光船が白浜や神戸と行き来しててね」。
その後、景観と防災を両立した7.5mの浮上式防波堤の建設が予定されたが、構造上の問題が見つかり中止。景観より人命を重視すべきと常設9mの巨大な防波堤の建設計画が始まった。佐知子さんは「集落の人たちからは、防波堤は必要だけど高さはそこまで必要なのか、と長年続いてきた海との文化が途絶えることを懸念する意見が多いです」と複雑な思いを明かす。
人命を第一としつつ、ハード面だけで策を練るのではなく、地域コミュニティといったソフト面からも集落の防災力を強化できないかと、土井夫妻は思考しているようだ。
「冷水浦のご高齢者は元気で健脚でおしゃべり上手な人ばかり。そんな姿や若い移住者の方々の活動から冷水浦の可能性を感じ、まだまだ何かできると勇気をもらっています。子どものためにと始めたお祭りも、少子化だからと中止するんじゃなくて、子どもから大人まで楽しめる形に変えて文化を継続させれば地域の団結力が高まるはず。催事で顔を合わせる機会が増えれば、防災のコミュニティづくりに繋がります」と佐知子さん。
「分校があった頃みたいに、いつか子どもの声で集落中が賑わうように、若い世代が来たいって思える魅力ある冷水浦にしていきたいね」と宏文さんも力強く語った。
※写真解説
1枚目:消防団員である土井 宏文さんと、2023年3月まで自治会長を務めた土井 佐知子さん(2023年)、2枚目:冷水分校(1956年)、3枚目:シラス加工場の見学(1999年)、4枚目:写真:冷水分校の校庭でラジオ体操(2003年)
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以上は、冊子『umigiwa profile』のweb版としての転載です。
発刊 2023年3月31日
企画 価値検証フィールワークユニット2023、友渕 貴之(宮城大学)
制作 前田 有佳利(noiie)
企画協力 日本建築学会海際文化小委員会、Seaside Monkey
制作協力 土井 佐知子(冷水自治会)
写真協力 内海小学校冷水分校資料、了賢寺